舞台の会社について(開く)
三日で八件
「部長、資金繰り表の確認、まだでしょうか」
大野は画面から目を離した。机の端に、店舗の賃貸借契約をまとめた一覧表が開いたままになっている。来期から始まる新リース会計基準の対応で、読まなければならない契約が80件。確認済みの欄に印が付いているのは、まだ8件だった。
3日かけて、8件。残りは72件。
第2四半期の見込みを固めながら、合間に自分で1件目から読み始めた。このままなら、あと27日。その27日を部長が一人で抱えれば、決算と資金繰りという本来の仕事が止まる。
本当は、春に始めているはずの仕事だった。「中間が終わってから」と言っているうちに、9月になっていた。
部下に任せる案は、頭にある。だが口から出るのは「任せて間違っていたら、結局自分が直す」だった。2年前、子会社の決算整理を若手に任せて、監査で直しになったことがある。直したのは自分で、若手はその年の冬に辞めた。
ハルカには先週、80件の契約条件を一覧に整理する作業だけを頼んである。期間、賃料、更新条項。判断の要る項目については、まだ回答を求めていない。
ハルカは先月、新リース基準の研修と設例の演習を終えたばかりだ。部長はそれを知っている。知っているから、余計に迷う。
先生の事務所
少し相談させてください。
新リースの契約が80件あります。
3日で8件。
このまま自分で抱えると、決算と資金繰りが止まります。
中間決算を前に、よく来ましたね。
案は持ってきているんでしょう?
自分が全件やる。
担当に全件任せる。
外部に委託する。
9月に着手するのは、やはり遅いです。
来期の予算は年明けの取締役会で決まります。
財務制限条項に触れるかどうかも、
期が変わる前に銀行に話しておかないと手が打てません。
3月期の決算で未適用の基準の影響を注記で聞かれる、
というのもご存じでしょう。
年内に数字を持つのは、
注記の要件ではなく経営判断として決めます。
それで、3つの案はどう見えますか。
先生は答えなかった。湯飲みを置いて、少しだけ間を置いた。
2年前の若手の件、覚えていますか。
先に決めて渡していましたか。
任せれば分かるだろうと思っていました。
分からないところは聞きに来るだろう、と。
最後に私が見て、判断がばらばらで、直しました。
能力の問題だった、と部長はずっと思うことにしていた。そう思わないと、辞めた理由が自分に戻ってくるからだ。
部長はしばらく黙っていた。3つの案を書いた紙を見て、それから顔を上げた。
そうではなくて、任せ方を間違えていた。
判断の基準を、先に渡していなかった。
担当はそれに当てはめる。
私は迷った案件と、通常案件を何件か抜き取って見る。
それから、契約書の数より時間がかかるものがあるんですが、
何だと思いますか。
店舗の造作、口約束の更新。
……それと、賃貸借という名前ではない契約。
うちはEC・物流の子会社に倉庫と設備を使わせています。
80件は「把握している80件」であって、
全部ではないかもしれません。
店舗開発部と物流子会社を、
最初から巻き込むことになりますね。
社長から一言もらうことにします。
それと、ハルカさんが今どう思っているかは、
私には分かりませんよ。
そこは大野さんが見るところです。
二十件
期間と賃料の抽出をAIで試してみました。
20件で2時間でした。
結果はどうだった?
でも「更新が合理的に確実か」は出てきません。
造作のことも、出店計画も、契約書に書いてないので。
抽出は任せていい。
判断はこちらでやろう。
……ところで、その20件、どこのAIに入れたのかな。
契約書には相手先の名前と賃料が入っているよね。
ハルカの手が止まった。効率化できた、と思って報告に来たのだった。何を聞かれているのかが分かるまで、少し時間がかかった。
個人で使っているものに。
残りの60件は入れないでおいてくれるかな。
入力が学習に使われる設定か、データがどこに保存されるか。
今日中に総務と情報システムに報告しよう。
一緒に行くよ。
まず情報システムと一緒に、
利用履歴・送信した内容・保存の状況を確認して記録を残す。
消すかどうかはその後だね。
ハルカは「はい」と言おうとして、声が出なかった。取引先の名前が入った文書を、自分の判断で外に出した。そのことが、いま初めて形になった。
ただ、
取引先の名前と賃料が入った文書を社外のサービスに出した。
これはハルカさん自身が、
情報の扱いとして持つ責任だね。
部として決めていなかった。
それは私の管理の責任だ。
今日中にできるのは報告と確認の依頼までだけど、
そこまでは一緒に進めよう。
使うなら、抽出結果は全件、契約書と突き合わせる。
AIが読み違えた1件が、そのまま台帳の1行になるからね。
……確認の工程が増えますね。
その代わり、読む時間が減る。
楽になるというより、
仕事の種類が変わるんだと思うよ。
情報システム担当は総務と兼務で、一人しかいない。中間決算に向けたシステムの準備を抱えたまま、「利用履歴を取り寄せます。回答は来週になります」と言った。
部長は礼を言って席に戻った。20件の契約の相手先の名前が、どこかのサーバーに残っているかもしれない。それを決めていなかったのは、自分だ。
決める
その夜、部長はA4の紙に、やることを7行書いた。契約を集める。判断の基準を書く。当てはめる。試算する。監査法人に相談する。取締役会に説明する。来期から回る仕組みにする。
基準は自分が10日で書く。当てはめはハルカが主担当で11月末。迷った案件は週に1回まとめて全部持ってきてもらい、通常案件も毎週何件か抜き取る。契約の収集は店舗開発部と物流子会社に頼み、社長には明日の朝いちばんに一言お願いする。
書き終えて、紙を見た。自分で80件読むのをやめる、と書いてあるのと同じだった。
2年前は、任せて、見なかった。今回は、基準を渡して、見る。それで間違っていたら、直すのは自分だ。そこは2年前と変わらない。変わったのは、その前にやることだった。
普通借家の設例と、戦略店舗の10年の設例まで、
演習でやりました。
判断が要る欄は空欄でいい。
基準書は10日で書くから、そのあと一緒に当てはめよう。
迷った案件は私が見る。
間違っていたら、直すのは私の仕事だ。
……私も昔、あの学習室で同じところで迷ったな。
ハルカは一瞬だけ顔を上げた。部長はそれ以上何も言わず、次の契約書に目を落とした。
一行目
ハルカは席に戻り、契約一覧の1行目を開いた。契約開始日、賃料、更新条項。契約書に書いてある項目は、埋められる。
その右隣にある「更新が合理的に確実か」という欄で、手が止まった。空欄でいい、と言われている。それでも、設例でやったのだから何か書けるはずだと思った。
まだ、何も書けなかった。
この話の、二人の反省と学び
この話に出てきた知識・前後の話
- 新リース基準はいつから・何が変わる ── リース会計ラボ(図解・設例・シミュレーション)
- 判断基準書(会計方針の文書化) ── 会計方針書ジェネレーターβ ── 基準書のたたき台
- リース期間を「合理的に確実」で判断する ── ハルカの学習ノート ── 設例・リース期間編(店舗5年・戦略店舗10年)
- 未適用の会計基準の注記(「評価中」でよいか) ── 有報注記ナビ(会計方針・見積り・未適用基準)
- 7工程の対応計画・役割分担・Excelかシステムか ── リース会計ラボ【部長編①】新リース対応の導入計画と役割分担(近日公開)
この物語は、上場企業の経理財務部の実務をモデルにしたフィクションです。登場する会社・人物・団体は架空のもので、特定の監査法人・企業・製品の手続や見解を描くものではありません。会計・税務の記述は公認会計士・税理士が監修しています。製品名・サービス名は本文に出てきません。
