舞台の会社について(開く)
日曜の朝手帳に仕事は書かない日
2026年10月18日、日曜。
朝8時。
駅裏の喫茶店は、開いたばかりだった。
大野部長がこの店に通い始めたのは、入社した年の秋だった。
カウンターの端の席と、ブレンドとトースト。
二十年近く、ほとんど変わっていない。
今日は早いね。
明日から少し忙しくなるので、
今日はゆっくりしておこうと思って。
書きませんよ。
日曜は、仕事を書かない日なので。
ほら、先週の続き。
マスターは、カウンターの下から将棋盤を出す前に、部長の鞄の横に置かれた紙袋を見た。先週も、同じ店の袋だった。
先週も持ってただろう。
家に、同じ色が三枚あります。
マスターが、カウンターの下から将棋盤を出した。日曜の朝、客が少ない時間だけの、二人の詰将棋。
大野くんは、いつも最初の一手で考え込む。
決めるのは早いのに、決めたあと長いんだ。
会社でも、同じことを言われる気がする。
で、その次は。
全部見ないといけないですね。
一人で指してると、自分の読みたい手しか読まないんだよ。
自分の読みたい手しか、読まない。
喫茶店の三十年鼻の中にしかなかった焙煎
私が通い始めたときは、まだ十年目くらいでしたね。
全部わたし一人だった。
任せるまでに五年かかった。
わたしの焙煎は、わたしの鼻の中にしかなかったから。
書こうとしたら、自分でも半分しか言葉にならなかった。
自分でも、半分しか言葉にならなかった。
最初は焦がしてばかりで、
わたしが黙って焼き直したこともある。
でも、それをやってるうちは、
あの子はいつまでもわたしの横にいるだけだった。
それから、わたしが休める日ができた。
三十年で初めてだよ。
部長は、少し冷めたコーヒーを飲んだ。今日の豆は、いつもより少し深い色をしていた。
わたしより、少し苦い。
少し苦いけど。
自社の店「やってみて。横で見てるから」
店員は、部長の顔を知らない。「いらっしゃいませ」と言われて、部長は棚の間をゆっくり歩いた。
この店の契約は、たしか更新が二回。
先週ハルカさんたちが読み合わせた中に、入っていたはずだ。
……いや、今日は考えない。
レジでは、新人らしい店員が、先輩に教わりながら会計をしていた。先輩は最初、横から手を伸ばしかけて、止めた。
「やってみて。横で見てるから」。新人は、ゆっくり、二回確かめてからボタンを押した。後ろに、客が二人並んだ。
先輩がやれば、十秒で終わる。
並んだお客さんに、
先輩は「少々お待ちください」と頭を下げた。
私は、あの十秒を、何年も自分で取ってきた。
部長は、結局ハンカチを一枚買った。四枚目。レジを打ったのは、新人の方だった。「ありがとうございました」の声が、少し大きすぎた。
待った二人のお客さんは、怒っていなかった。
……待たせるかどうかは、店員が決めることじゃなくて、
店が決めることなんだな。
夕方の手帳記憶で書けたのは、十三行
一行だけ。
……いや、思い出せるだけ。
連結の精算表のファイルは、会社にしかない。部長は記憶だけで、「調」の列を上から書き出した。相殺消去とは別に、連結上必要な修正仕訳を反映する列。その一つひとつについて、理由を記したメモはなかった。
物流の棚卸の締め日のずれ、海外の為替の端数が三つ、
製造子会社の科目の読み替え、前期の修正の名残……。
十行目までは、すぐに出た。十一、十二、十三行目は、少し時間がかかった。
十四行目で、ペンが止まった。
……ここに何か、あったはずだ。
金額は覚えている。
理由が、出てこない。
「私が覚えている」と、私は言うつもりだった。
でも、記憶の中にも、全部はない。
時計が6時を過ぎた。部長は、残りの七行を思い出そうとして、何度か手帳を見直した。
明日の朝、一時間早く行って、
画面を見ながら全部の理由を書いておこうか。
そうすれば、きれいな表を見せられる。
……マスターは、黙って焼き直すのは楽だと言っていた。
きれいにしてから見せたら、それは、
見せたことにならない。
部長は、十三行の下に、線を一本引いた。その下は、空けたままにした。
そして、ページの一番下に、仕事ではない一行を書いた。日曜に書いてよい、唯一の種類の行だった。
手帳の一番下の一行。「一人で指していると、読みたい手しか読まない」。
日曜日の終わり整えないまま、明日見せる
日曜日が終わる。
手帳には、日曜に書かないはずの十三行と、一本の線があった。
手帳は、明日、会社には持っていかない。
理由は、明日、画面を見ながら自分で書く。
ハルカには横で見てもらう。
分からないところがあれば、止めてもらう。
思い出せない行は、思い出せないと言う。
日曜の一番下の一行だけは、仕事の行ではないので、残しておく。
来週の日曜にも、たぶん一行書く。
一人で指していると、読みたい手しか読まない。
きれいにしてから見せたら、それは、見せたことにならない。
明日、10月19日。
中間連結の締めが始まる。
- 中間連結の締め(10月19日〜) ── 部長は精算表を整えないまま、ハルカの横で開く
- 「調」の列 ── 二十行ほど。理由は書いていない。部長の記憶で書けたのは十三行(手帳は会社に持っていかない)
- 連結の二人目 ── 「未定」。ハルカは子会社1社分の連結パッケージの確認から(第8話の分担どおり)。精算表を見せる一歩は、明日
- 読み取りの残り件数の確認は10月23日(金)。期限は11月中旬のまま
この話の学びと、マスターの言葉
この話に出てきた知識・前後の話
- 連結精算表の組み方(単純合算・消去・修正の列) ── 連結決算ラボ(準備中)
- グループ内取引の相殺消去と、照合で差が出たときの扱い ── 内部取引消去ラボ【基礎編】
- 連結を回せる人が一人しかいない ── 二人目を育てる計画と人的資本の開示 ── 人的資本可視化指針ラボ【部長編①】
前の話:第9話(10月17日)|数字の前に、モノがある / 次の話:第11話(近日) / 記録ページ(年表・会社のいま・話数一覧) / ハルカの学習ノート(リース会計ラボの章)
この物語は、上場企業の経理財務部の実務をモデルにしたフィクションです。登場する会社・人物・団体は架空のもので、特定の監査法人・企業・製品の手続や見解を描くものではありません。会計・税務の記述は公認会計士・税理士が監修しています。製品名・サービス名は本文に出てきません。
