舞台の会社について(開く)
日曜の朝三つ目の逃げ道
2026年10月25日、日曜。
朝8時半。
駅裏の喫茶店の、カウンターの端の席。
先週の日曜も、部長はこの席にいた。
あの日、日曜は書かないはずの手帳に、「調」の列の理由を十三行書いた。
先週より、少し遅いね。
昨日も会社に出ていたので、少し寝坊しました。
忙しかったかい。
……思っていたのとは、違う忙しさでしたけど。
マスターはそれ以上聞かず、カウンターの下から将棋盤を出した。先週、二人で解けなかった詰将棋が、そのまま並べてあった。
その次で止まった形だよ。
ってところでしたね。
部長は盤をしばらく見て、玉が逃げる先を、指で一つずつ押さえた。三つあった。先週は、二つしか見ていなかった。
ここに逃げられたら、詰まない。
それが見えたなら、半分は解けてる。
先週は、二つしか見ていなかった。
今週、ハルカさんの横で開いた表からも、
私が見ていなかった行が二つ出てきた。
850と620。
……先週、マスターに言われたとおりでした。
一人で指していると、読みたい手しか読まない。
昔、ここの常連に言われたんだ。
毎朝、大野くんが今座ってる席にいた。
どこかの会社の経理の偉い人だったよ。
決めるのは早くて、決めたあと長い人が座る席。
……それは、私のことを言っている。
娘の焙煎見るのは、二人分
わたしは、焼き上がりを一杯ずつ飲むだけ。
焼くのは一人分減ったけど、見るのは二人分になったんだよ。
焼くのは一人分減って、見るのは二人分。
むしろ前より疲れた。
自分で焼いたほうが早い日も、何度もあった。
代わりに、飲んで、言った。
「今日のは少し浅い」って。
部長は、手元のカップを見た。今日の豆も、先週と同じように、少し苦かった。
毎回飲まなくてよくなったのは。
あの子が、浅いのに自分で気づくようになってからだ。
三年目。
……私は、まだ一週目だ。
……いや、聞かないよ。
会社のことは聞かない約束だった。
……一つだけ言うと、任せた分、見るものが増えました。
見るものが増えないのは、任せたふりのときだけだ。
わたしは、名前を付けるだけ。
中身は、あの子が決める。
名前を付けると、分かった気になる。
……昨日の「端数」も、そうだった。
焙煎機の音が止まった。娘さんが小さな紙コップを二つ持ってきて、マスターと部長の前に置いた。
娘さんは何も言わずに、焙煎機の前に戻った。部長には、それが少し嬉しそうに見えた。
川沿いの公園「黙って見てな」のあとで
ベンチの横の縁台で、年配の二人が将棋を指していた。片方の後ろに、若い人が立って見ていた。孫らしかった。
老人の手が止まるたびに、孫は口を開きかけて、閉じた。
言いたいんだろうな。
いい手が見えている顔だ。
「今の、銀じゃないの」。とうとう孫が言った。老人は振り向かずに、「黙って見てな」と言った。
次の手で、老人は銀を打たなかった。三手後に、その一局は負けた。
言えば勝てたかもしれない。
でも、言われて指した一局は、たぶんあの人の将棋じゃない。
駒を片づけながら、老人は孫に聞いた。「さっき、なんで銀だと思った」。孫は少し考えてから、盤の端を指で示した。
「黙って見てな」で終わらせなかった。
負けたあとに、聞いている。
火曜、ハルカさんの整理表の誤りを、
私は直さずに問いを一つ返した。
あれは、聞いた方だと思う。
でも金曜、読み合わせが0件だったと聞くまで、
私はハルカさんの空いた席を見ていなかった。
盤の上だけを見ていた。
誰がどこに座っているかを見るのは、指す人じゃなくて、
席を決める人の仕事だ。
部長は、ベンチから立ち上がった。川の上を、風が渡っていった。
帰り道、橋のたもとのたい焼きの屋台に、客が二人並んでいた。部長は列の後ろに並び、焼き上がりを待った。
待つのは、嫌いではない。
待たせるのが、苦手なだけだ。
たい焼きは、尻尾まで餡が入っていた。部長は橋の上で、一つだけ食べた。
夕方の手帳手放したものと、増えたもの
今日は、書かない。
……書かないけれど、数えるだけ数えてみる。
部長はペンを置いたまま、頭の中で二つの列を作った。手放したものと、増えたもの。
手放したのは、連結パッケージの確認の一部、
精算表を一人で開くこと、
「調」の列の理由を一人で覚えておくこと。
増えたのは、抜き取りの10件、
事前相談で話す古い直し方の二つ、
ハルカさんの整理表とメモを読む時間。
それに、空いた席を見ること。
手放したのは三つ。
増えたのは四つ。
数だけなら、重くなっている。
連結を、また一人で回そうか。
そうすれば、ハルカさんは毎日読み合わせに座れる。
抜き取りも減らせる。
……それは、焼き直すことだ。
増えた四つは、全部「見る」仕事だ。
「焼く」仕事は、減っている。
マスターは三年と言った。
私は、まだ一週目だ。
軽くなっていないのは、当たり前なのかもしれない。
それに、850も620も、一人で回していたら、
今年も見つからなかった。
重くなった分の半分は、前から抱えていた重さが、
見えるようになっただけだ。
昨日、ハルカさんは外れた予想を、外れたと書いた。
私は、外れた名前を、何年も書き続けていた。
来週の事前相談で、二つの古い直し方を、自分の口で言う。
それも、見えるようになった重さの方だ。
部長はペンを取った。仕事の行は書かない。日曜に書いてよいのは、仕事ではない一行だけ。
手帳の一番下の一行。「焼くのは一人分減って、見るのは二人分になる」。
日曜日の終わりまだ、軽くならない
日曜日が終わる。
手帳には、先週の十三行と、今週の一行があった。
任せた分だけ、楽になったか。
今週の答えは、「まだ、ならない」だった。
ただ、重さの種類は変わった。
一人で抱えて見えなかった重さから、二人で見て、見えるようになった重さへ。
連結は、一人に戻さない。
空いた席を見るのは、席を決める自分の仕事にする。
任せた最初の年は、軽くならない。
焼くのは一人分減って、見るのは二人分になる。
明日、10月26日。
中間の確定と、監査法人との事前相談の週が始まる。
- 中間連結の確定 ── 10月26日(月)の物流の再送を受けてから。「調」の2行目620は三つで一組で反映(第16話)
- 監査法人との事前相談(来週=10月26日の週) ── 850(前々期からの二重計上)と620(前期以前の表示)を部長が自分の口で説明。読み取りの仕分け(24件・25件)と例外も
- 連結の二人目(ハルカ)は午後、読み合わせは毎日午前1時間 ── 部長は連結を一人に戻さない。空いた席(配分)を見るのは部長
- 抜き取り10件(読み取りの例外)── 部長
- 換算シートの見直しの依頼(海外販売子会社)── 来週(10月26日の週)、部長から
この話の学びと、マスターの言葉
この話に出てきた知識・前後の話
- 連結を回せる人を1人から2人へ ── 二人目を育てる計画と、育成中の業務の守り方 ── 人的資本可視化指針ラボ【部長編①】
- 照合差異の直し方(連結上の調整か、個別の修正か) ── 内部取引消去ラボ【応用編】
- 読み取りの体制と判断基準書(二人で読む・抜き取り) ── リース会計ラボ【部長編①】
前の話:第16話(10月24日)|端数と呼んでいた数字 / 次の話:第18話(近日) / 記録ページ(年表・会社のいま・話数一覧) / ハルカの学習ノート(リース会計ラボの章)
この物語は、上場企業の経理財務部の実務をモデルにしたフィクションです。登場する会社・人物・団体は架空のもので、特定の監査法人・企業・製品の手続や見解を描くものではありません。会計・税務の記述は公認会計士・税理士が監修しています。製品名・サービス名は本文に出てきません。数字はすべて架空です。
