舞台の会社について(開く)
朝二つの表
2026年10月27日、火曜。
事前相談まで、あと二日。
午前8時10分、フロアにはまだ部長しかいなかった。
机には、二つの表が並んでいた。
財務の担当が月初に一本ずつ決めてきた、社内レートの表。
それと、海外販売子会社の、立ち上げの年からの連結パッケージの写し。
ドル建ての出荷台帳は、前々期より前には残っていない。
でも、年ごとのドルの合計と、月ごとのレートなら、
ここにある。
月ごとのドルが分からなければ、差そのものは出せない。
でも、差がどこまで大きくなりうるか、なら出せる。
部長は、鉛筆で一行目を書いた。年のドルの合計に、その年の社内レートと期中平均の、いちばん大きな開きを掛ける。
どの月も、その開きより大きくずれることはない。
だから、差はこの数字を超えない。
数えずに、幅で言う。
8時45分。ハルカが席に着いた。部長の机の上の、鉛筆の表に目が止まった。
……部長、それ、月曜の620の続きですか。
前々期より前を、全部数える必要があるかどうか。
会社として、先に考えると言ったからね。
ドルの合計に、レートのいちばん大きな開きを掛けるんだ。
だから、それより大きくはならない……ですね。
読み合わせが終わったら、一緒に確かめてくれるかな。
私の計算は、私に甘いかもしれない。
部長が、自分の計算を「甘いかもしれない」と言った。
先週までは、言わなかった言葉だ。
午前上限は、実際より大きい
社内レートは141円から160円で、
期中平均が152.40円。
いちばん大きな開きは11.40円です。
……2,394万円です。
上限は15,340。
立ち上げの年は、出荷が三か月だけで、792だ。
ドルの合計に、返品や値引きのマイナスは入っていませんか。
上限も小さく出てしまいます。
パッケージの親会社からの仕入は出荷の額だけで、
返品と値引きの行は、どの年も空だった。
マイナスがある年なら、
プラスとマイナスを足した絶対額で計算し直すところだ。
上限=その年のドルの合計 ×(社内レートと期中平均のいちばん大きな開き)。前提:どの年も返品・値引きのマイナスがない(パッケージで確認)
ここは、数えなくていいと言えそうです。
その年の営業利益に比べてどうか、
ほかに事情がないかも見てから決めたい。
出荷は三か月だけで、同じ年に、
ほかの直し方も入っていません。
理由も、一緒に書いておこう。
全部、小さく出てほしかった。
鉛筆を握ったときから、そう願っていた。
願いながら計算するのは、危ない。
前期は、実際の数字が分かっています。
前期でも上限を出してみます。
実際は、1,140でした。
上限は、実際の20倍近くあります。
実際が大きいとは言えない。
前々期と3期前は、上限が2千万円前後です。
小さいと言えない年を、「たぶん小さい」で済ませたら、
月曜にハルカさんが止めた仮置きと同じだ。
一年じゅう続いたことにして計算しているからね。
実際は、ずれは月ごとに向きも変わる。
だから実際は、ずっと小さいはずだ。
でも、「はず」は、数えた数字じゃない。
「はず」と書きたかった。
書けば、二箱を開けなくて済む。
立ち上げの年は数えない。
数えるのは、二箱だ。
11月の上旬までに、私が数える。
並べ方は、手伝ってくれるかな。
月曜に、そう言いました。
送るのは、午前の予定だったけど、昼にずらす。
二箱数える」と伝えるんですね。
私たちの考えを先に出して、足りない見方がないかを聞く。
決めるのは、こちらだ。
午後様式の制約は、なかった
午前11時50分。
追補は、部長の名前で主査に送られた。
Cの欄には、年ごとの上限と、「前々期・3期前は伝票で算定(11月6日まで)」の一行が加わっていた。
午後1時半。
部長は、海外販売子会社の経理担当に送るメールを書き始めた。
換算シートに「親会社との取引」の行を足してもらう依頼だ。
子会社への依頼の下書きだ。
件名:連結パッケージ 換算シートの見直しのお願い(第3四半期から)
換算シートに「親会社との取引」の行を設け、親会社から仕入れた分は、ドルの金額と、親会社の換算額(円)を書いてください。
親会社の社内レートの表(月ごと)を、毎月の出荷台帳と一緒にお送りします。
当初の様式の制約により、これまで親会社との取引を分ける行がありませんでした。
→ 親会社との取引の行を作らなかったのは、私です。
合わないと感じたときは、いつでも知らせてください。
立ち上げのときから一緒なんですよね。
現地で採った最初の経理の人だ。
帳簿の付け方を、一つずつ一緒に決めた。
全部「正しいこと」になっていたと思う。
私が教える側だったからね。
教える側の言葉は、正しいことになる。
私も、部長の言葉をそうやって聞いてきた。
部長、ここは、何の制約だったんですか。
私が、行を作らなかっただけだ。
「様式の制約」と書けば、誰のせいでもなくなる。
現地の担当者は、私が作った形だと知っているのに。
「親会社との取引の行を作らなかったのは、私です」と書く。
部長が自分の誤りを書くのは……言いにくくないですか。
でも、形を作った人が理由をぼかすと、使う人は、
その形を疑っていいのか分からなくなる。
それなら、なぜ直すのかも、正直に渡さないとね。
部長は一行を消し、一行を足した。依頼の最後に、「合わないと感じたときは、いつでも知らせてください」と書いた。
……送るよ。
夕方気づいていた、毎月
午後3時から、部長は一人で、抜き取りの契約を読んだ。
一人読みの25件から選んだ10件のうち、今日読めたのは2件。
誤りはなかった。
午後6時10分。
海外販売子会社から、返事が届いた。
実は、毎月、親会社の請求書の円と、私の換算が合わないことには気づいていました。大野さんが作ってくださった形なので、そういうものだと思っていました。
次からは、合わないときは、すぐにお知らせします。
気づいていた。
毎月。
私が黙っていたから、向こうも黙っていた。
作った人が黙っていると、使う人も黙る。
読んでみて。
毎月。
私の形だから、そういうものだと思っていたそうだ。
昼に、最後の一行を足してよかった。
部長の形だから、そういうものだと思っていました。
先週の月曜まで、聞けなかったんです。
私は同じことを、二か所でやっていたんだね。
使う人は聞けない。
今日、それが分かったよ。
部長は、メールをもう一度読んで、少しだけ笑った。
疲れた顔だったけれど、
月曜の書庫の話をしたときとは違う顔だった。
6時半。部長は、もう一通メールを書いた。宛先は、先生だった。
今夜のうちに先生に聞いてみた。
明日、会えないかって。
順番を、一度見てもらいたい。
ちゃんと休んでね。
木曜の朝、どの順番にしたかを、最初に話すよ。
……お先に失礼します。
手帳二行だけ書いた
午後7時、先生から返事が届いた。
追補の写しを、先に拝見できますか。どの順番で話すかは、読んでから一緒に考えましょう。
部長は、顧問の先生に追補の写しを送り、手帳を開いた。
今日の欄に、二行だけ書いた。
作った人が黙っていると、使う人も黙る
上限を確かめ、重要性まで考えて、数えるかを決める。
小さいと言えないなら、数える。
- 前々期以前の620 ── 年ごとの上限を出した(前々期23,940・3期前15,340・4期前792千円。前期で試すと上限21,658に対し実額1,140)。4期前は算定しない。前々期・3期前は紙の出荷伝票で算定(部長・二箱・11月6日まで。並べ方はハルカ)
- 追補 ── 10月27日 11:50 に主査へ送付(Cに当社の暫定評価と上限の出し方を追加)。説明の順番は未定
- 換算シートの見直し ── 海外販売子会社が第3四半期のパッケージから「親会社との取引」の行を設ける。合わないときはすぐに知らせる、と返事
- 抜き取り10件 ── 部長。今日2件(誤りなし)、残り8件
- 読み合わせ ── 二人で読む24件のうち残り17件(二人で読んだ累計38件)
- 850の前期分 ── 重要性と扱い(修正再表示等の要否を含む)は未決。事前相談で当社の暫定評価を説明し、ご意見を伺ったうえで当社が判断
- 先生 ── 10月28日(水)17時。事前相談で話す順番を、追補を読んでから一緒に考える。ハルカは代休
- 事前相談 ── 10月29日(木)午後
この話の、二人の反省と学び
前々期以前の換算差 ── 上限の見積りと調査の要否(当社の暫定評価) 全文火曜の午前、部長が作り、ハルカが確かめたメモ
この物語の会社(架空)で、親会社と海外販売子会社のあいだの換算差(毎期「端数」として売上原価で調整してきた差)について、ドル建ての月別の記録が残っていない年に、差がどこまで大きくなりうるか(上限)を出し、伝票まで遡って数えるかどうかを決めたメモです。実在の会社の文書ではありません。金額・レートは架空です。ひな形として使うときは、自社に残っている記録に合わせて方法を選んでください。
前々期以前の換算差 ── 上限の見積りと調査の要否(当社の暫定評価) 第0版
1 背景と範囲
- 対象:親会社から海外販売子会社へのドル建ての輸出。親会社は出荷月の社内レートで売上を、子会社は期中平均で仕入を円にしており、その差を毎期「為替換算の端数」として売上原価で調整してきた(子会社の立ち上げの年から)
- 前中間(+480千円)・前期(+1,140千円)は、出荷台帳で算定済み(10月26日)。当期の財務諸表に比較情報として表示されるのは、この二つの期間
- 前々期以前は、出荷台帳(販売システムの入替え前)にドル建ての金額が残っておらず、月別には算定できない。紙の出荷伝票(年ごとの箱)にはドル建ての金額がある
- 比較情報に表示されないことをもって調査を不要とはしない。過去に開示した営業利益に同じ違いがあったため、調査の範囲を当社で決め、その考え方を監査法人に説明する
2 上限の出し方
- 残っている記録:①子会社の連結パッケージ(年ごとの親会社からの仕入のドルの合計と、期中平均)②財務の担当が月初に決めてきた社内レートの表(月ごと)
- 差=Σ(月のドル ×(その月の社内レート − 期中平均))。どの月も、社内レートと期中平均の開きは、その年のいちばん大きな開きを超えない
- したがって、差の絶対値 ≦ その年のドルの合計 × いちばん大きな開き。これを「上限」とする
- 前提:各月のドル建ての金額が正であること(返品・値引き等のマイナスの取引がない)。マイナスがあると合計が小さくなり、上限を過小に見積もるおそれがある。当社は、各年のパッケージで親会社への返品・値引きの行が空であることを確認した。マイナスがある年は、各月の金額の絶対値の合計を用いる
- 月ごとのドルが分からなくても出せる。その代わり、上限は実際の差よりかなり大きく出る(下の前期の試算)
3 年ごとの上限
| 期間 | ドルの合計(千ドル) | 社内レート(円) | 期中平均(円) | いちばん大きな開き(円) | 上限(千円) | 扱い |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 前期(試算) | 2,380 | 141〜158 | 148.90 | 9.10 | 21,658 | 実額 1,140 で算定済み(上限は実額の約19倍) |
| 前々期 | 2,100 | 141〜160 | 152.40 | 11.40 | 23,940 | 伝票で算定する |
| 3期前 | 1,300 | 133〜150 | 144.80 | 11.80 | 15,340 | 伝票で算定する |
| 4期前(立ち上げ・1〜3月) | 180 | 128〜136 | 132.40 | 4.40 | 792 | 算定しない(営業利益への影響・定性的な事情を確認) |
4 当社の暫定評価
- 前期で試すと、上限 21,658千円に対し実額は 1,140千円。上限が大きいことは、実際が大きいことを意味しない
- ただし、上限が大きい年について「小さい」と言うこともできない。推計(前期の比率を当てはめる等)で埋めることはしない
- 4期前(立ち上げの年):上限 792千円。上限の金額だけでなく、当該年度の連結の営業利益に対する影響と、定性的な事情(出荷は三か月のみ・同じ年度にほかの連結上の修正や開示上の論点がないこと)を確認した結果、当社としては追加の伝票集計を省略する方針とした(暫定。事前相談でご意見を伺う)
- 前々期・3期前:上限がそれぞれ 23,940千円・15,340千円で、小さいとは言えない。紙の出荷伝票で月別に算定する(経理財務部長。2箱・各百数十枚。2026年11月6日まで)
- 算定の結果と、それにもとづく重要性の判断(過去の財務諸表の扱いを含む)は、監査法人のご意見を伺ったうえで当社が判断する
5 事前相談で伺いたいこと
- 当社の考え方(上限で範囲を決め、上限が大きい年は原資料で算定し、上限が小さい年は営業利益への影響と定性的な事情を確かめて算定を省略する)に、不足している観点がないか
- 前中間・前期の表示の違い(+480・+1,140千円)の重要性の判断にあたって、当社が見ている観点(営業利益への影響の大きさ・当期純利益と利益剰余金に影響しないこと・継続していたこと)に、不足がないか
6 再発防止(換算シートの見直し)
- 海外販売子会社の換算シートに「親会社との取引」の行を設ける(第3四半期のパッケージから。10月27日に依頼し、同日に承知の返事)
- 親会社の社内レートの表(月ごと)を、毎月の出荷台帳と一緒に子会社へ送る
- 子会社の担当者から「毎月、親会社の請求書の円と合わないことに気づいていた」との連絡があった。合わないときはすぐに知らせてもらう
この話に出てきた知識・前後の話
- 過去の誤謬の訂正と比較情報(重要性・修正再表示) ── 有報注記ナビ(会計方針の変更・誤謬の訂正)
- 親会社との取引は、親会社が使ったレートで ── 差は為替差損益 ── 内部取引消去ラボ【応用編】
- 子会社の損益は期中平均で円にする ── 換算の基本 ── 在外子会社換算ラボ【基礎編】
- 為替差損益と在外子会社の換算 ── 外貨建取引ラボ【基礎編】
前の話:第18話(10月26日)|書庫には、まだ行かない / 次の話:第20話(10月28日)|謝る時間と、聞く時間 / 記録ページ(年表・会社のいま・話数一覧) / ハルカの学習ノート
この物語は、上場企業の経理財務部の実務をモデルにしたフィクションです。登場する会社・人物・団体は架空のもので、特定の監査法人・企業・製品の手続や見解を描くものではありません。会計・税務の記述は公認会計士・税理士が監修しています。製品名・サービス名は本文に出てきません。数字はすべて架空です。
